ぎゃしゃ浮砲台

浮足立った雑文

順さんから吹く風

グッモー✌️

ではじまる井上順さんのSNS(X)を見ると心が落ち着く

一日の終わりに出来事や感情を忘れないために記す言葉もあるけれど、一日を心地良く過ごすための言葉もある

 

毎朝、マンションの管理員さんと挨拶して雑談を交わす時の一時と似ている

 

「落ち葉のお掃除、いつもありがとうございます」

「今年も桜は早咲きでしたね」

「今週から蝉が本気を出してますね」

 

思想信条を交わす訳でも無く、お互いが心地良く過ごすための一言と挨拶

グッモー✌️とポップに挨拶できる人が周囲に増えれば、人生トータル二億円くらいの価値が増すかも

 

ただ軽やかなだけでなく、心地良さを運べる人になれると良いな、と思いながらも日々小さな苛立ちが思春期のニキビのように吹き出てくる

 

 

 

https://twitter.com/JunInoue20/status/1781090568678105487?t=E26D3cuRtrIjpBl8nifwZQ&s=19

 

 

 

 

本屋で波を待つ

昼休み、会社近くのビルで同僚と出会って雑談

「このビルで昼飯食べてるの?」と聞かれたので「いや、本屋覗きに来た。本屋でしか味わえないトレンド感じに来るんや」と回答

 

本屋でしか味わえないトレンド感、って何なんだと後で自問した

Meetsやあまからで街情報を摂取し、NHKテキストを眺め、女性ファッション誌の特集に目を走らせ、新刊小説やノンフィクションの棚を大雑把に眺める

こういうルーティン作業は自分の好みを補完しているだけで、トレンドを感じているとは言えない

普段触れない言葉や世界に遭遇するかもしれない、という期待を抱きつつ頭は空っぽにして徘徊すると、意識していないことに出会えたりもする

 

世相や流行ではなく、今の自分が乗りたくなる波としてのトレンドはどこにあるのだろう

答えの無い雑記

 

 

■本日のエンタメ

Tele / カルト

カルト - song by Tele | Spotify

 

やり過ぎありがとう


f:id:gyasyaukihoudai:20240416123938j:image

思わぬところで、ありがとう

「ありがとう」という言葉を屋号に使う発想はなかなか見ない

根拠の無い正しさや誠実さを振り回しているような、笑顔でグーパンされているような違和感

 

「ありがとう」に近い違和感が生まれる言葉はなんだろう、と考えると「やさしさ」とか「きまじめ」と思い浮かんだけど、もっと相手に渡す善意、屈託の無い善意のような言葉は無いか、と考えたり

 

しかし、「ありがとう」から少し下に目線を落とすと「やり過ぎない医療」という言葉にもブチ当たる

そしてまた違和感

過剰でも適切でもなくストレートにオーバードーズ感を伝える「やり過ぎ」という言葉の選び方

 

違和感は残したもの勝ちなのか

 

あまりにザワついたので、何年ぶりかにブログ更新

 

■本日のエンタメ

ドラマ「95」第1話

一生、1995年に囚われて生きていくんだろうと思っている中年なので見ない訳にはいかない

髙橋海人が佇むだけでドラマとしては成功

最終回を見た後に、1995年の自分と対話してみたいな

男子、辞めます 2021/7/3

本日が男子(及川光博の男性ファン呼称)として最後の日。

 

彼がデビューしてから25年、自分の人生と彼の活動をリンクさせつつ、ずっと男子として応援し、生きる力をもらってきた。

そんな25年に終止符を打った、2021年の初夏。

もう、男子辞める。

 

 

コロナ渦を経てのリベンジツアーとなった『SOUL TRAVELER』ツアー、最終公演の場である大阪会場に赴いた。

2年越しのミッチーワンマンショー。ミッチーどころか、音楽も演劇も、生のパフォーマンスを空間を共有して見ること自体がとても久しぶりだった。

 

毎年の恒例だったことがコロナで挫かれ「いつもの」が通用しなくなった世界で、また生のパフォーマンスを体感するなら、ミッチーのショーしかないと決めていた。

 

 

”男子”の特権

ずっと、ミッチーファンの中で数少ない”男子”であることに誇りと特権のような視点を抱いていた。

ミッチーとベイベのときめきイチャイチャを俯瞰で見る立ち位置、同性としてミッチーへのシンパシーと憧れと感嘆を得られる視点。

あと、恒例のコール&レスポンス「男子ーー!!」で得られる特別感。

 

どこか冷ややかに、冷静にミッチーという存在との距離感を図りながら25年過ごしてきたと感じている。

距離感を保つための行動の1つが「ポンポンを持たない」であった。

 

もちろん「死んでもいい」は完璧に踊れるけれど、ポンポンを用意しない、手に持たないことを、今までずっと続けてきた。

「浮かれるな、浮かれちゃなんねぇぞ、ギリギリのところで踏ん張れ」と自身に科した男子視座の証明が、ポンポンだったのだと思う。

 

一度だけ、その冷静さを失いかけたのは、2015年「光博歌合戦」の神戸公演。

5列目という至近距離でショーを観て理性崩壊した。

眩し過ぎたから。

https://twitter.com/gyasya/status/593434222741757952

 

 

ソルトラポンポンの変

今回のソルトラツアーは大阪1公演のみの参加だし、2年越しだし、御礼というよりは納税義務のような気持ちでグッズを購入した。

Tシャツは2020年ツアーのものを着込み、会場ではアクリルスタンド、タンバリン、そしてポンポンを買った。

コール&レスポンスも、笑い声も、感情を声として表現することができない状況下で導入されたタンバリンはマストだと思っていたけど、グッズ売り場で、つい不意に「あ、ポンポンも」と告げて購入してしまった。

 

「声が出せない状況下での感情の発露手段」として、環境的免罪符を得たような気持ちで、開演前にポンポン作成の準備をした。

けっこう難しいんだよ、丸くてでっけぇポンポンに仕上げるのは。ねじり過ぎてピリッと千切れそうになったりして。

 

時は来たりて。「死んでもいい」がやってきた。

そこまでのショーで十二分に満たされ、酔いしれ、出来上がった自分は、開演前の免罪符的言い訳など全く無かったことのように、かばんからポンポンを取り出して掲げた。

 

ポンポンを振って、踊って、自分は気付いていた。

 

今までにない自己解放の先の自己解放を得てしまった。

 

ミッチーワンマンショーでのポンポンとは何なのか。

それは、夜空高く舞い上がる恋心

それは、時を超えて瞬く星

煌めく思いを全身で解放するため、その思いを客席一体となって共有するため、彼から放たれた光を映し返すための星として、大切なアクセサリー。

 

ポンポンを振り、真剣に遠隔ハグをして、遠隔アーチェリーでハートを射抜かれ、ファン歴25年目にして自己解放の上限突破を果たしたことを実感して思った。

 

 

もう、男子辞める。

 

 

俺は、ベイベになる。

 

 

未熟者だからこそ

もうさ、男子とか女子とかいいや。全員ベイベ、それでいい。俺も、ベイベ。

性別区別なんか必要なくて、及川光博が好きな人は全員ベイベ。

日常では「普通」や「男性だから/女性だから」という考えに抗い続けているのに、たいせつな場所であるミッチーの前で、自分は自分を解放しきれていなかった。

 

「未熟者」と歌われた時にも、心がガラガラと崩れて、でもそれは嫌な感覚では無くて、ワタシ再生産の鐘が鳴ったようだった。

まだまだ気付けることがある。

未熟であることを気付ける自分でありたい、と思って成熟しよう。

 

 

2015年にはこんなこと書いてた。

時を経て感じることの変化、特にこの5年は生き方が大きく変化したからこそ、振返って響いた。

拝啓、ペンフレンド

http://blog.livedoor.jp/gyasyahoudai/archives/44942371.html

 

30周年の頃に自分は何を思って彼を見ているのだろう。

ベイベの1人としてその日を心待ちにしながら生きるよ。

ディスコの神様 feat.藤井隆/tofubeats

お子のミルクタイムBGMに何か無いかな、とYou Tubeでたどり着いたのがUNITのライブ映像
タカスィの素敵なところは、目の前にいるお客さんを真っ直ぐに見てくれるところ

わたし、あなた、みんな
それを照らすミラーボール
何度も味わってきた魔法の瞬間を閉じ込めたような曲だ

お子には「この曲を好きになって欲しいな」よりも「大切だと思える曲と瞬間が味わえるといいね」くらいの細やかな気持ちで、一緒に音楽を楽しみたいな

https://open.spotify.com/track/36MwbWxhiFdyD29fhWJUoQ?si=tqLVVkLRR4yhenyJ64Hj-w

朝焼け/KIRINJI

夜と朝の狭間の26時
子どものミルクタイムに起きたついでに、燃えるゴミを捨てに外へ出る
マンションの廊下とエレベーター、ゴミ収集場に赴くだけだけど、パジャマ姿に寝癖付きの髪の毛で家の外へ足を踏み出すと、少し日常を逸脱するようだ

白い朝、久しぶりだな
あんなに夜の続きで会っていたのに、最近は存在すら忘れてた
曖昧なグラデーションの狭間で湧く思い、人生の余白のような時にこそ得られる魔法、また味わえたらいいな
26時まで起き続けられる体力と気力があってこそだけど

https://open.spotify.com/track/6YGx6tfykavzQxIueqrC05?si=KRDjZZtKReedYTkGlYBK_A

協奏曲ホ長調「春」/A・ヴィヴァルディ

祖母のメインバンク、池田銀行の販促物であろうクラシックCDのことを良く覚えている
とは言っても1曲目の「春」だけ

CDラジカセを買って貰った直後あたりに良く聴いていたのは、「春」の景気良い序盤の旋律を、リコーダーで練習していたこともある

「春」を聴くと祖母と祖母の家を思い出す
放課後や長期休みの間、祖母と過ごした時間は、今思えば日常と非日常が散りばめられている
9DK+開業医だった祖父の元仕事場と、断捨離できないモノに溢れた家
片付けられない家族と過ごしたお陰で、ダストアレルギーの鼻炎と一生付き合うことになったのも、今では優しい因果として受け止められる

「春」を聴けば祖母を思い出すように、我が子にも自分と何かの音楽がリンクしてくれたら、と願う

本日読んだマンガ『青のオーケストラ』を読んで、風呂場でヘタりながら聴いた「春」も、ひとつの風景

https://open.spotify.com/track/2WeE113RVmUx8eWpqHFU9i?si=ZUyf4NohRim1k45zx-icjQ