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「友達」の定義~ドラマ『火花』感想

先日、数年ぶりにパーマをあてた。(パーマあてる、って関西方面の言葉なんやな)
20年来の付き合いになる美容師さんに「チリチリ一歩手前くらいで」というリクエストとともに見せた画像が、Netflixドラマ『火花』の波岡一喜演じる"神谷さん"だった。
"神谷さん"というキャラクターの成分を自分に注入してみたい、と触発されたのは間違いない。

 


火花 予告編(30秒Ver)


尊敬や依存が混ぜこぜになって関係性が交錯する徳永と神谷という二人を見て、ずっと考えていたのが「友達」という言葉について。
主人公・徳永の視点から向き合う2人の人物は「相方:山下」と「師匠:神谷」。徳永の生涯で出会うであろう人間の中で、最も濃密な時間を過ごす2人との存在は「友達」と呼べるものであろうか。

 

日常的に「友達」という言葉を用いる場面は多い。
でも、自分に関わりあって日々を仲良く過ごしている人たちが全てが当てはまるかというと、そうではない感覚があって。ずっとずっと、言葉の基準・定義を探している。照れ臭いんだ、「友達」という言葉が。

 

徳永は、相方・山下を「友達」と思い、呼び続けるだろうか。2人はきっと人生の節目を共有し続けるだろう。山下の子供が生まれた、徳永が結婚した、家を買った、学生時代の友人が亡くなった、と人生のシーンで何度も再会し縁は続いていきそうだ。でも、「友達」とは呼びそうにない。「元・相方」という距離感。

憧れ、共鳴し、傷付けても許し、断続的にも、共にいる。そんな神谷との関係が「友達」という言葉の距離感だな、と感じた。

 

多くの人と時を共有することも美味な感覚であるけれど、神谷のような人に、驚き、共鳴し、許し合えるような感覚こそ、人と出会う喜びの真髄だと思う。

 

これから先の人生で、何人の「友達」を見つけられるのだろうか。

贅沢だとは思うけど、自分はまだまだ欲している、「友達」を。

驚嘆し共感する「友達」に出会いたくなる、そんな心の奥底の思いがスパークしまくった、Netflix『花火』。